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N女学園高校生徒懲戒記録簿1

はじめに



私は2007年11月に、「『N女学園高校生徒心得』の研究」でN女学園高校におけるしつけ教育全般について紹介した。その後、多くの読者から、とりわけ興味深い「懲戒」について、もっと詳しく知りたいという要望をいただいている。

この「『N女学園高校生徒心得』の研究」は、おもに1990年代を中心とした研究である。2000年代に入り、N女学園高校自身が大きな変革の時代を迎えており、内容にも若干の修正、補足が必要となっている。

そこで、今回はN女学園高校シリーズ第二弾として、生徒懲戒記録簿を取り上げ、N女学園高校の懲戒制度について、さらに詳しい研究結果を報告したい。

この生徒懲戒記録簿には、N女学園高校で40年近くにわたって、行われてきた女生徒に対する懲戒、すなわちお仕置きの記録が詳細に記録されており、お仕置きを研究するものにとっては第一級の資料である。

しかし、その性格上、門外不出の資料であり、研究者の間では幻の資料とされてきた。だが、私はN女学園高校の現校長溝口純子先生の全面的な支援で、その膨大な資料に触れることができた。そして、溝口先生をはじめ、N女学園高校の多くの先生方のご協力で、この貴重な資料の分析を行うことができた。



N女学園高校におけるお仕置き



N女学園高校は、神戸市にある厳しい躾で知られた全寮制の女子高校である。同校の女生徒は、前回、その内容を紹介し、詳しく解説した生徒心得を遵守することが求められ、それから少しでも、逸脱すると、厳しいお仕置きが与えられる。

そのお仕置きについても、同校では独自の制度が整えられている。女生徒たちは、犯した罪の程度に応じて、お仕置きを受けるのであるが、それは「ある罪には、このお仕置き」などといった単純なものではない。

女生徒の受けるお仕置きは、懲戒点制度というシステムにしたがって決定される。詳細については、懲戒記録簿の解説において随時説明していくが、要するに、女生徒の犯す罪に点数がついており、その点数がある一定の基準に達すると、懲戒と呼ばれるお仕置き、すなわち体罰が与えられるのである。

懲戒は、その程度によって、しつけ、指導、特別指導、特別反省の4種であるが、そのうち、指導と特別反省はそれぞれA,Bの二つに分かれており、全部で6段階ある。

しつけや指導は、懲戒点が少ない段階で与えられる、軽いお仕置きである。もちろん、軽いとはいっても、それはN女学園高校の中の話である。それらのお仕置きでも、教室など他の生徒の見ている前で、ショーツまで下ろさせられ、裸のお尻を叩かれるのであるから、思春期の少女にとっては、大変厳しいお仕置きであるといえる。

しかし、特別指導や特別反省となると、お尻を叩かれるだけでは済まない。これらのお仕置きは地下にある反省室と呼ばれる部屋で行われる。スパンキングの他に、浣腸やお灸まであるという、他校ではあり得ない厳しいお仕置きなのである。

こうした厳しいお仕置きは、懲戒点が多い場合に与えられる。例えば特別指導は、懲戒点15で与えられる。特別指導は、ケインを用いたお尻叩きが20回で、さらに浣腸が行われる。

懲戒点が20に達すると、さらに厳しくなり特別反省となる。特別反省はA,Bの二つのランクに分かれている。特別反省Aで女生徒が受けるお仕置きは、平手によるスパンキング50回、ケイン20回、浣腸、お灸である。

特別反省Bは、学園における最高刑であるが、Aよりスパンキングとお灸の数が増える。この懲戒を受ける者は、懲戒点30以上となっている。

学校や寮で行われるお仕置きのうち、しつけや指導は、その場の教師の裁量で行われる。しかし、特別指導、特別反省については、教師個人の判断で行うことは禁止されている。

これらについては、懲戒決定会議という会議が開かれ、その当否が検討される。この懲戒決定会議は、2007年に制度が変更された。それまでは、特別指導の場合は、懲戒を申し立てた教師、クラス担任、生徒指導部教師が、特別反省の場合は、さらに校長、副校長、養護教師が会議に参加することになっていた。

しかし、校長や副校長、養護教師は多忙のため、実質的にはほとんど欠席であった。また、懲戒を申し立てた教師と、生徒を擁護しようとする担任の意見が対立し、結局、生徒指導部の意見で決まってしまうことが多々あった。

さらに、生徒指導部からも、多忙を理由に部長、副部長ではなく、経験の浅い教師が出席することが多かった。このため、後ほど述べるように、判定が甘くなる傾向が見られた。

2007年の改定によって、懲戒決定会議の出席者のうち、決定権を持つのは特別指導、特別反省とも、副校長、生徒指導部長および副部長の3名となり、生徒の懲戒を申請した教師と、その生徒の担任は決定権を持たないオブザーバーとして出席することになった。

また、養護教師は懲戒決定会議からは外れ、非常に厳しいお仕置きである特別反省Bの際に、立ち会い、生徒の健康状態を観察することになった。

会議では、懲戒を申し立てた教師の申し立て理由についての説明と、担任教師による生徒の事情説明が行われ、3名の委員の多数決で決定される。

特別指導の場合は、これで最終決定であるが、特別反省の場合は、校長の決裁を必要とする。ただし、実際にはほとんどの場合、懲戒決定会議の決定通りとなる。

なお、以前は懲戒宣告に対して、当該生徒や寮の同室上級生による異議申し立ての制度があったが、これも実質的には機能していないとの理由で2007年に廃止された。



懲戒記録簿とは



さて、今回紹介する生徒懲戒記録簿であるが、これは特別指導、特別反省執行の記録である。生徒の氏名や執行者名、内容は当然であるが、その懲戒に至った経緯、懲戒決定会議の議事録も詳細に記録されている。

さらに特別反省については、文字による記録だけではない。実際に行われたお仕置きについては、音声や画像の記録も残されている。1985年までは、音声テープ、その後2000年まではビデオ、さらにそれ以後はDVDによる記録が残されている。

こうした記録を残すというのは、女生徒に対する厳しいお仕置きが、正当な手続きを経てなされたものであるという証拠を残すためである。

しかし、女子高生が裸でお尻を鞭打たれ、浣腸される様子を記録したこうしたテープ類は、一部の偏執的マニアにとっては垂涎の的でもある。このため、こうした記録は厳重に保管されている。私はこの記録についても、一部、見ることができた。これについては、今後機会があれば紹介したいと考えている。

N女学園のユニークな懲戒点数制度は1972年に導入されたが、この生徒懲戒記録簿はその時から作られている。以来、40年近くが経過しているが、記録されている懲戒は指導、反省あわせて1144件に達する。

内訳は特別指導が830件、特別反省が314件である。特別反省のうちでは、Aが215件と7割近くを占め、極めて過酷なお仕置きであるBは99件にとどまる。

年代ごとに見ると、もっとも多かったのは、1980年前後であり、1980年には特別反省が17件あった。これはこれまでの最高である。ちなみに、この年は特別指導は24件だった。

さらに、当時は特別反省Bの割合が高く、1977年から1983年の7年間で見ると、特別反省104件中、Bが44件となっている。このように、当時は、懲戒の件数が多いだけでなく、その内容も非常に厳しいものであったことが分かる。

近年は、懲戒件数の減少が顕著である。特に特別反省は1988年の16件を最後に、二桁を超えることはなくなった。この1988年は、集団カンニング事件があった年で、16件の特別反省のうち、14件はカンニングに対する特別反省Bであった。

これ以降は特別反省Bはめっきりと減り、この15年ほどは、数年に一度となっている。特に2003年から2007年の5年間は、一度も行われなかった。このように、厳しいお仕置きが減っている理由としては、さまざまな要因が考えられる。

今も変わりはないが、特別反省に至る理由としては、教師への反抗的態度が多い。そしてその多くは、しつけや指導といった軽微なお仕置きの最中に生じている。つまり、お仕置きを受ける女生徒が素直にショーツを下ろさなかったり、逃げだそうとした態度が反抗的ととらえられたのである。

ショーツまで下ろしてお尻を叩かれるなどといった、他の学校ではあり得ない厳しいしつけにも、約7割のN女学園中学からの進学者はある程度慣れている。そのため、特に一年生で特別反省を受ける生徒は、圧倒的に外部からの進学者である。

しかし、最近は外部からの進学者も、母親あるいは、祖母までがN女学園の出身者であるという場合が多くなっている。このような家庭では、比較的厳しいしつけがなされており、小さな頃から、お尻を出すということに慣れているということも考えられる。

しかし、私はなんといっても、昨今の体罰に対する風当たりが、懲戒件数の減少の原因であると考えている。このため、従来なら当然、特別反省になっていたような事例が、特別指導に減刑されたり、特別指導が単なる指導になるなど、寛刑傾向が見られるのである。

例えば、過去の記録を見ていると、反抗的態度と取られた生徒のなかには、お尻を鞭で叩かれているときに、思わず振り上げた足が教師に当たってしまい、「教師を足蹴にした」という理由で厳罰の特別反省Bになってしまった女生徒もいる。

また、教室でしつけを受ける際に、ショーツを下ろすのが、わずかに遅れたため、特別指導になったなど、現在なら、おそらく問題なしとされるか、あるいはせいぜい指導でとどまるような例が、多く見られる。



憂うべき現状



私は、伝統あるN女学園の厳しいしつけが、体罰反対の風潮で甘くなっている現状を憂いている。N女学園高校では、下着に至るまで厳格な規定があり、たとえばショーツは「木綿製の白色無地で、股上が20�以上、サイド幅が10�以上、お尻を完全に覆うものを着用しなければならない」と決められている。

しかし、最近ではこういったズロースという懐かしい言葉が似合うショーツを嫌い、こっそりと規定外のショーツを穿いている女生徒がいるということである。以前なら、そういう女生徒には厳罰が与えられたが、最近は口頭の注意だけで済まされることがあるようだ。

こうした傾向が、特別指導、特別反省という厳しいお仕置きを減らしていることは間違いない。ただ、この2、3年、こうしたお仕置きがわずかではあるが増えている。

これは、行きすぎた甘やかしにより、教師に対して、まるで友達のような口を利いたり、注意されるとふてくされるなど、以前なら考えられないような生徒の振る舞いに、学園が危機感を抱いたためであろう。



伝統の復活に向けて



3年前に校長に就任した溝口淳子先生は、1981年にN女学園高校を卒業され、N女学園大学に進学、卒業後、母校の教員になられた。溝口先生が在籍された1980年前後は、「N女の鬼」と呼ばれた大石梅子先生が生徒指導部長として辣腕をふるっていた時代である。

その当時の、懲戒記録も紹介するが、その厳しさは今となっては考えられないほどである。大石先生は、将来の教頭、校長として嘱望されていたが、病に倒れられ、30代後半の若さで亡くなられた。

その学園葬に際しては、在校生はもとより、多くの卒業生も詰めかけ、大石先生の遺影に涙したのだった。彼女らの多くは、大石先生の厳しいお仕置きに泣かされたのだが、それでも生徒に慕われていたことを示すエピソードだった。

溝口先生もまた、大石先生を慕う一人だった。母校の教員になってからも、大石先生の教えを守り、たとえ生徒に恐れられようとも、厳しいしつけを実践してきた。しかし、時代の風潮は、そうした厳しさを認めず、教師になって10年目の1995年に、大学へ移動となってしまった。もちろん、大学講師への抜擢は、表面的には栄転ではあったが、実際は溝口先生の現場からの排除だったのだ。

2000年代に入ると、N女学園高校でも、夏休み中に茶髪に染める生徒が現れたり、友達同士でカラオケに行くなど、風紀の乱れは目に余るようになってしまった。

そのため、事態を憂いた学園理事らが、改善に乗りだし、2004年に溝口先生は高校に戻り、副校長に就任した。そして、地道な努力の結果、徐々に伝統的な厳しさを取り戻してきたのだ。2007年には、校長に就任し、同時に副校長に中川玲子先生、生徒指導部長に水谷里奈先生と、いずれも厳しいことで定評のある先生が就任した。

それ以後、懲戒件数、特に特別反省が増加に転じている。2009年度には、その件数は21年ぶりに10件に達した。また、2008年度に6年ぶりに行われた特別反省Bも、2009年度は3件と1992年以来の複数件数を記録した。

いまや、伝説となった30年前の厳しさとは、まだまだ、比べものにはならないが、ようやくN女学園らしさを取り戻しつつあるようで、私も嬉しく思っているところである。

今回のこの研究は、溝口先生、中川先生、水谷先生の全面的な協力により出来上がったものである。先生方には、心より感謝を申し上げる。

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